ゼロで生きる 1 ーシンガポール編ー
新卒の会社を退職してからアジアを放浪、シンガポール就職、台湾ワーホリを巡ったノンフィクションの記録。
熱い。
いつもの熱気で目が覚めた。
そういえば最近エアコンの調子が悪い。
目が覚めると壁に囲まれた狭い2段ベットの上にいた。
1m先にある天井の大きなファンが、この熱気をかき混ぜている。この窓のない部屋は、日の光が入らないから時間がわからない。右手を枕元へ伸ばし、使い古したNokiaの携帯を探した。この携帯は、シンガポールの路地で売っていたものを、格安で購入したものだ。
そうすると間も無くアラームがなった。慌てて止めると、周りでガサガサっと人が動く音がした。どうやら、今日は6人いるようだ。
「さて」
僕は、周りに気を払いながら起き上がり、2段ベットからゆっくりとキッチンへ向った。
「おはよう」と遠くから声が聞こえた。
ここの管理人さんだ。
30歳くらいのフィリピン人の女の子で、このホステルでアルバイトをしている。
毎朝朝食のパンを用意してくれている。彼女は、サウジアラビアで以前働いていたが、今はシンガポールで働いているようだ。茶髪に染めたストレートな髪の毛をかきあげながら、彼女は、ニコッと微笑み意地悪そうに話しかけてきた。
「今日も会社に行くの?いつもより遅いけど大丈夫?」
昨日の酒が少し残っており、ぶっきらぼうに答えた。
「出社の時間は自由なんだ。今日は、早く行きたい気分じゃない。君が用意してくれたパンをゆっくり味わうことにするよ。」
彼女はニコッとまた笑い何か言いたそうにしていたが、他のお客に呼ばれた。
「じゃあ、良い1日を」
彼女はそう言うと、また意地悪そうな顔をして去って言った。
ここに来てから三ヶ月。自分は何をしているんだろう。英字新聞を広げながら、黄色い塗料が剥がれた壁を見つめる。誰かが落書きしたのだろう、見たこともないような文字がたくさんならべられている。
今日は、2013年9月30日。やっと日本に戻る日がやってきた。ここまで毎日書いてきた日記も最後のページをめくることなく終えることになりそうだ。
今思い返せば、海外で働きたくて海外に出てきたのだ。海外に出ればそこで得られる何かがあると思っていたが、そこで手に入れたものはなにもなかった。
僕は、少し冷めたコーヒーを口に含み、新聞の文字を何度も何度も目で追いかけた。
その日の夜ホステルで1人のインドネシア人女性と出会った。彼女の名前はナビ。中華系にもマレー系にも見えるその顔立ちはとても印象深かった。彼女は、とても陽気で、気分の乗らない僕に話しかけてきた。
「私はシンガポールの大学で会計学を勉強しているのよ。将来はシンガポールで働きたいと思っているの」
どこかプライドの高そうな彼女の話し方は、彼女への興味を失わせるのには十分だった。
自分の意思の強さではなく、ただプライドだけが高い人には、めんどくさい人が多いと私の経験が語っていた。
僕はなるべく深みにはまらないように答えを慎重に選んだ。
「それはすごいね」
中身のない言葉を返す。
彼女は何かが満たされたように、あなたはここで何をしているのかと尋ねた。
この手の質問は、今まで何十回と聞かれてきた。ホステルにいると毎日新しい人に会う。僕は旅をしているわけでもなく、ここでこうして働いているわけだから、なんの変化のない僕の日常は答えを選ばさせてくれない。
「シンガポールで働いているのさ。でも仕事の契約が終わって日本へ帰ることになったんだ。今日が最後だから、ここでこうして明日が来るのを待っているのさ」
僕が言ったことにはいくつか真意ではないところもあるが嘘でもなかった。
彼女は明らかに、どんな仕事をしていたのか聞きたそうな顔をしていたが、僕は語りたくなかった。
もう今日で最後なんだ。仕事もこの国も。
自分で選んだ道も、進まなければわからない。ただ選ぶコンパスを間違えただけ。そういい聞かせてきた。
そして案の定、彼女は僕に訪ねてきた。
*1:続きは1ヶ月後に